プロ奢

ADHDもそうだし、うつ病もそう。双極も解離も、吃音もそう。結局そんなものは『じぶんの身体にフィットしない箱』の中に、無理やり足を折り曲げてギチギチで生きてるから「障害」なんよ。環境にフィットした障害は「個性」でしかない。勝てば個性。負ければ障害。まだやりようはあるかもしれない。


わたしは発作で、19歳のときに大学をやめて3万と寝袋だけ持って冬のヨーロッパを3ヶ月放浪しに出て、ポーランド付近の雪山で遭難しパスタを川にディップしてカロリーを保つことで生き延び、プラハでラリったナイフ男に追いかけ回され、地下鉄では残金をスられ、オーストリアでは難民とゴミ箱を漁って食べかけのパンを食いながら暮らし、最終的に外国人と結婚して帰国してしまったくらい「なんらかの障害」が強いんだけど。そのせいで3回は物理的に死にかけてるから障害と呼んでもいいと思う。


それでも、たとえばわたしは「朝起きれない」けど、「朝起きなくていい」から困っていない。「モノを失くす」けど、「モノを持たない」から困っていない。たびたび変なことをするけど、ネタにするから困ってない。そういうことなんじゃないかな。


「できないことはできない」と諦めることは悪いことではない。諦めるというのは、つまり、他のなにかを諦めないということなんだから。


もちろん、これは生存バイアスだし、みんなが同じように出来るなんて1ミリも考えてないし、なんならマネなんてしない方が絶対にいいと思ってるけど、障害を「治そう」と固執して、あるいは、健常者を呪うことに熱中して、かぎられた人生の容量を無駄に使ってしまうひとが多すぎる。少なくともそれよりは、それをひとつの特性として諦めて、できるだけ無害に、あるいは有用に使うように捉え直せたらいいよな、と思うわけです。


というわけで、今日は「個性的なひとになるための、再現性のある方法」というテーマで文章を書いたよ👇3分で読めます